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みなさんこんにちは。
子どものころ、ケースに入れられた琉球人形が家にあり、
それはなぜかわたしに所属していた。
だれかにもらったのか、どこかで買ったのかいまとなってはわからないが、
美しい色合いのその人形が、琉球人形だとわかったのはずいぶん後になってからだった。

ところで。
琉球人形は、沖縄人形とは言わない。
沖縄というのは明治以降の名称なので、当たり前なのだけど。
「沖縄あるある」として、なんとなく「琉球」という名称のほうが、「沖縄」よりも格上の扱いを受けてる気がする。
琉球 > 沖縄
という図式である。
「琉球」というひびきには、悠久の歴史、栄えた王朝、独特の文化みたいなのが感じられるのに対し。
「沖縄」にはどうしても、悲しい歴史、抑圧された過去、いまだ解決しない問題、みたいなのが乗っかってるようにおもう。
だからなのか、あくまでもわたしのイメージだけど。
プロスポーツチームでも、「沖縄○○」よりも、「琉球○○」というネーミングのほうが強そうに感じる。
これはなにも沖縄だけにかぎったことではない。
わたしは山登りのときには、自称「紀の国のサル」である。
「和歌山のサル」とは言わない。
なんとなく使っていたけど、そういえば、そうなのだ。
たぶんほかの地方の方も思い当たるフシがあると思う。
高知のなんとかよりも土佐のなんとか、
長野そばでなくて信州そば、
越後製菓に津軽りんご、
いまの都道府県名ではなく、かつての地名で出ています、というのが多い。
それはきっと昔の名前のほうがしっくりくるからだ。
いまの地名はお上から与えられたもので、いわばお役所的な名前。
昔の名前のほうが自分の血や肉になってる気がするのかもしれない。
根が深くささる感じ。
歴史が味方してくれる感じ。
ダイレクトに自分のアイデンティティを表現できるのだ。
しかし例外もある。
東京がそれだ。
東京は東京というほうが好まれる。
「東京ばな奈」は「江戸ばな奈」ではないし、
「東京スカイツリー」は「江戸スカイツリー」ではあってはならない。
考えるに。
東京の人は江戸にアイデンティティがない人が多数であるから、東京のほうがしっくりするのだろう。
それは横浜や神戸もそうだ。
明治以降にアイデンティティを獲得した街は、そっちのほうがしっくりくるのだと思う。
そうして、さらに。
「東京」には「吉原ことば」的な役割もあるのだと思う。
「~でありんす」などの吉原ことばは、遊女のお国訛りを隠すためだったと聞いたことがあるけど。
「東京」は、江戸にルーツを持たない人たちのアイデンティティになりえたのである。
そういう意味では、東京はやさしいところなのだ。
アイデンティティというのはともすれば、排他的な感情を産むものだけど、
東京は排他的ではなく、むしろ懐が深いところなのだ。
だれしもを受け入れてゆくのが東京なのだろう。
そしてそれはアメリカにも同じことが言える。
と。
琉球と沖縄から東京、アメリカまで飛んでしまった。
要するに、
どこで生まれたかによって、人はいやおうなしにアイデンティティを獲得してしまうが。
それを捨てるのは並大抵のことではなく、
結局、わたしが「紀の国のサル」であるように。
死ぬまでそれを持ち続けるのだなあ。
それでは~
とりぶう
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